≪ 第一章 乳白の空間 1 ≫
地面から薄靄のような煙がゆらゆらと漂っていた。
何もない、ただ白いだけの場所に、柔らかくほのかに甘い白檀の香りが広がっている。
その中央に一人の女が座っていた。女は静止画のように、ぼんやりと顔を上に向けたまま動こうとしない。
病院の寝巻きだろうか。水色の薄っぺらい布を身にまとっていた。
申しわけ程度に束ねられている髪はところどころほつれている。随分と前に染めるのをやめたのだろう。
毛先だけが異様に茶色くなっていた。
天守神(あまがみしん)はその女に気づかれぬよう、気配を消し少し離れた場所で佇んでいた。
どのくらい経っただろうか。ベールのように向こう側が透けて見えた白が、練りこまれた水あめのような色になった。
煙の隙間からときおり現れる女のうつろな瞳を見て神は、そろそろ効果が表れてきたと確信した。
あらかじめ焚いておいた煙は、吸うだけで思考を低下させ、催眠状態に入りやすくさせる。
天上人(てんじょうびと)でも地上人(ちじょうびと)でもない自分にとっては、なんの効力もないただの白い煙だ。
だが、地上人だった女には覿面(てきめん)に効いている。考えることをやめた瞳が何よりの証拠だった。
神はスーツの胸ポケットからおもむろに手帳を取り出す。
「芹沢葉子(せりざわようこ)、四十歳。死因は事故死」
手帳の中に写し出されている血色のいい顔写真とは違い、頬がこけ、やつれたその顔は実年齢よりも老けこんで見えた。
神は手帳を胸ポケットへ戻し、その手で黒く長い前髪をかきあげる。そして、小さく息を吐き出した。
「さて、さっさと仕事を終わらせるかな」
神は微動だにしない女、葉子に向かって、ほくそ笑んだ。
だらしなく出している白いシャツを光沢のあるグレーのスラックスの中に入れ、同色の上着のボタンを留め直す。
緩めていたダークグレーの細いネクタイを締め直すと、気持ちが仕事モードへと切り替わった。
鼻からフンと息を吐き出し、女に向かってゆっくり歩き出す。
「芹沢葉子さん」
だがその声は、葉子の耳に届いていないようだった。少しだけ声を張り、再度名前を呼ぶ。
今度はこちらの存在に気がついたみたいだ。不思議そうな顔をした彼女と目が合った。
自分がどうしてここにいるのか、まったくわかっていないらしい。
葉子の茶色い瞳は微かに揺れていたが、それは神にとって見慣れたものだった。
「こんにちは、芹沢葉子さん。アナタを迎えにきました」
神は葉子を観察していたときの薄ら笑いを潜め、営業用の万人受けする笑顔を浮かべながらお辞儀をする。
その動作につられるように彼女も頭を下げた。ゆっくりと顔をあげながらこちらの顔を見つめてきた。
「初めましてですよ」
なぜ胸のうちがわかったのかとでもいうような顔つきをする葉子に、神は微かに口元を緩める。
「顔に書いてありますよ。さて、それでは参りましょうか?」
早々に任務を完了させるべく、慣れた手つきで葉子を促す。
大抵の人ならこの笑顔に魅了され、そのまま手を取るはずである。しかし、彼女は中々動こうとしなかった。
「どこへ?」
神は小さく呟かれた葉子の言葉に、応対を変えることにした。