9月1日 掌編

 昨夜、七時〇五分に目覚ましをセットした。

高校に入ってから二年と半年。

その間、一度も本来の役割を果たしたことのなかった私の時計。

そのアラーム機能を、昨夜初めてONにした。

なのに……。


とうの私は眠れずに、七時〇五分に鳴るであろうそれの短針を、

ただひたすら凝視していた。


 でも、本当は違う。

私が一晩寝ずに待っている理由は、

初めて使う時計に、

胸ときめかせているからなんかじゃ決してない。

理由はただひとつ。

荒々しくて慌しい、足音。

毎朝七時三分過ぎ、この部屋の向こう側にある階段を、

規則正しく駆け下りるあの音をどうしても聞きたかった。

だって、ドア一枚隔てた廊下に響くその音が、

私にとって一番の目覚まし時計だったから。

でも、たとえどんなに願おうと、その足音はしない。

二度と聞えることはない。

音の主である父が、もうこの世にいないからだ。


 彼はこの夏の始め、通勤途中に起こった交通事故で、

あっけなくこの世を去った。

だから、もう足音は聞えない。

それなのに、まだ待とうとしている私がいる。

どうしてだろう。

聞えないはずの音を期待する自分が嫌で、

時間より二分遅れに時計をセットしたというのに。

私は眠ることも放棄して、その時が来るのを待っている。


 ……会いたいから……だろうか。


 生前の父と私の関係は、あまり良いものとは言えなかった。

いがみ合っていたとかそういうことではなくて、ただ希薄だったのだ。

朝は私が起きるころに出掛けて行き、

夜は私が自室に篭ってからしか帰って来なかった父。

休日も会話らしい会話などしたことはなかった。

父は、一体どんな姿をしていたのだろう。

そう思ったのは、彼が亡くなった夜のことだった。

でも思い出すことができたのは、あの足音だけ。

見慣れているはずの父の姿は、少しも浮かんでは来なかった。


「会いたい」と思った。

 もし、もう一度会うことができたなら。

もし、もう一度このドアの向こうから足音が聞こえたなら。

私は部屋を飛び出し、追い駆け、

今度こそ父の姿をこの瞳に焼き付けるだろう。

私は目をつむり、時が来るのを待った。

時計を見続けるのは、なんだかいたたまれなかったから。

秒針の時を刻む音が耳をくすぐる。

でも、それだけ。

他には何も聞こえなかった。

薄目を開けて、時計を見る。

七時〇三分三十秒、三十一、三十二、三十三……。

(ああ……)

 やっぱり来なかった。聞こえなかった。

唇を噛んだ、その時だった。


 扉の向こうで音がした。

ととととと、と慌しく階段を駆け降りる足音。

それはいつものようでもあり、

同時に、いつもより軽やかで若々しくも感じられた。

「父さん!」

 叫んで部屋を飛び出した。

けれど、階段を降りた先で私を待っていたのは父ではなく、

驚いたようにこちらを見ている兄だった。


「どうしたんだ、お前」

「兄さんこそ。大学まだ休みでしょう」

「いや……」

兄は少し困ったように肩を竦めた。

「ちょっと夢見てさ……」

「夢?」

「ん、まあちょっとその、親父のね。

そんでほら、お前今日から新学期始まるだろ? だから、さ……」

 そう言って照れたように微笑った兄の顔は、

忘れていたはずの父の笑顔そのもので。

私は、不覚にも涙をこぼしそうになった。

「うん」

 私は頷いた。

こぼれ落ちそうになる涙を押し込めるために、力強く。

「うん、そうだね」

 そうだね、父さん。そうだよね。

本当は、わかっていたのだ。

あの、家中を揺るがすように階段を駆け降りる足音は、

父が私のためにわざとしていたのだということも。

それが私と父との、唯一のコミュニケーションだったということも。

ずっとずっと、わかってたよ。


「ねえ、兄さん」

私は、兄の顔を見上げた。

「せっかくだから、朝ご飯一緒にしようよ」

「そうだな。――そういや、母さんは?」

「まだ寝てる。呼んで来るよ、着替えるし」

 階段を上り部屋へ戻ると、セットしたアラームが鳴り出した。

止めながら、深く息をついた。


 ねえ、父さん。

今日から、新学期だよ。

だからもう、目を開けるね。


 そして今ここから、新しい朝を始めよう。

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