昨夜、七時〇五分に目覚ましをセットした。
高校に入ってから二年と半年。
その間、一度も本来の役割を果たしたことのなかった私の時計。
そのアラーム機能を、昨夜初めてONにした。
なのに……。
とうの私は眠れずに、七時〇五分に鳴るであろうそれの短針を、
ただひたすら凝視していた。
でも、本当は違う。
私が一晩寝ずに待っている理由は、
初めて使う時計に、
胸ときめかせているからなんかじゃ決してない。
理由はただひとつ。
荒々しくて慌しい、足音。
毎朝七時三分過ぎ、この部屋の向こう側にある階段を、
規則正しく駆け下りるあの音をどうしても聞きたかった。
だって、ドア一枚隔てた廊下に響くその音が、
私にとって一番の目覚まし時計だったから。
でも、たとえどんなに願おうと、その足音はしない。
二度と聞えることはない。
音の主である父が、もうこの世にいないからだ。
彼はこの夏の始め、通勤途中に起こった交通事故で、
あっけなくこの世を去った。
だから、もう足音は聞えない。
それなのに、まだ待とうとしている私がいる。
どうしてだろう。
聞えないはずの音を期待する自分が嫌で、
時間より二分遅れに時計をセットしたというのに。
私は眠ることも放棄して、その時が来るのを待っている。
……会いたいから……だろうか。
生前の父と私の関係は、あまり良いものとは言えなかった。
いがみ合っていたとかそういうことではなくて、ただ希薄だったのだ。
朝は私が起きるころに出掛けて行き、
夜は私が自室に篭ってからしか帰って来なかった父。
休日も会話らしい会話などしたことはなかった。
父は、一体どんな姿をしていたのだろう。
そう思ったのは、彼が亡くなった夜のことだった。
でも思い出すことができたのは、あの足音だけ。
見慣れているはずの父の姿は、少しも浮かんでは来なかった。
「会いたい」と思った。
もし、もう一度会うことができたなら。
もし、もう一度このドアの向こうから足音が聞こえたなら。
私は部屋を飛び出し、追い駆け、
今度こそ父の姿をこの瞳に焼き付けるだろう。
私は目をつむり、時が来るのを待った。
時計を見続けるのは、なんだかいたたまれなかったから。
秒針の時を刻む音が耳をくすぐる。
でも、それだけ。
他には何も聞こえなかった。
薄目を開けて、時計を見る。
七時〇三分三十秒、三十一、三十二、三十三……。
(ああ……)
やっぱり来なかった。聞こえなかった。
唇を噛んだ、その時だった。
扉の向こうで音がした。
ととととと、と慌しく階段を駆け降りる足音。
それはいつものようでもあり、
同時に、いつもより軽やかで若々しくも感じられた。
「父さん!」
叫んで部屋を飛び出した。
けれど、階段を降りた先で私を待っていたのは父ではなく、
驚いたようにこちらを見ている兄だった。
「どうしたんだ、お前」
「兄さんこそ。大学まだ休みでしょう」
「いや……」
兄は少し困ったように肩を竦めた。
「ちょっと夢見てさ……」
「夢?」
「ん、まあちょっとその、親父のね。
そんでほら、お前今日から新学期始まるだろ? だから、さ……」
そう言って照れたように微笑った兄の顔は、
忘れていたはずの父の笑顔そのもので。
私は、不覚にも涙をこぼしそうになった。
「うん」
私は頷いた。
こぼれ落ちそうになる涙を押し込めるために、力強く。
「うん、そうだね」
そうだね、父さん。そうだよね。
本当は、わかっていたのだ。
あの、家中を揺るがすように階段を駆け降りる足音は、
父が私のためにわざとしていたのだということも。
それが私と父との、唯一のコミュニケーションだったということも。
ずっとずっと、わかってたよ。
「ねえ、兄さん」
私は、兄の顔を見上げた。
「せっかくだから、朝ご飯一緒にしようよ」
「そうだな。――そういや、母さんは?」
「まだ寝てる。呼んで来るよ、着替えるし」
階段を上り部屋へ戻ると、セットしたアラームが鳴り出した。
止めながら、深く息をついた。
ねえ、父さん。
今日から、新学期だよ。
だからもう、目を開けるね。
そして今ここから、新しい朝を始めよう。