オレンジ 掌編

 夜更けの公園。

 あの時、どうしようもなく惹かれたのは――


「カズー、ちょっと聞いてくれよ~!」

 そう言って前の席にどっかと座り人の机に突っ伏したのは

クラスメイトの金谷剛史で、

その時捜し物の真っ最中であった和樹は内心で舌打ちしながら、

おなじみの台詞を吐いた。

「どうしたの? なんかあった?」

「どうしたもこうしたもねぇよ~! ひでぇんだぜー森下ってばよー」

「森下?」

「俺っちのマイスイートハート」

「ふうん……」

 和樹は気のない相槌を打ちかけ、ふと疑問を抱く。

「確か先週は違う苗字だったように思うんだけど」

「過去は過去。今は今」

「ふられたんだんだろ」

 和樹も浮かんだその問いは、彼の後方から発せられた。

金谷は突っ伏したままの状態で、声の主にうめく。

「うるせーぞ拓。お前に俺の気持ちがわかってたまるかよ」

「わかんねーよ。なあ、和樹」

 同意を求めつつ、和樹の右隣りの席を陣取る高元拓。

 金谷と同じく和樹のクラスメイトである。

「あーまあね」

 和樹が苦笑まじりに曖昧な答えを返すと、

高元は金谷を見てほらな、とクールな笑みを浮かべた。

「だいたい中三のこの時期に、色恋なんて。

よくそんな無駄なことにエネルギー費やしてられるよな、お前」

「年中女はべらして、とっかえひっかえ遊びまくってる

お前に言われたくねー」

 高元は肩を竦める。

「来る者は拒まずな性格なもんでね」

「けっ」

「面倒臭ぇだけだと思うげどね、俺は」

「お前なー」

 金谷はゆるゆると顔を上げ、高元を睨んだ。

「淋しくないの? そういう生活。なんか貧しいよ」

「そこまで言うか」

「そうだよ。断然そう。なあ、カズ」

「んー」

 話をふられた和樹は、生返事をする。

「おおーい、ちゃんと聞いてくれよー。カズぅ」

 大袈裟に嘆く金谷。

和樹は鞄の中を引っかき回しつつ、

「いや、でも僕そういうのってまだよくわかんないし、

あんま興味ないっていうか……」

 眉間に皺を寄せる。

――和樹」

 そこへ頬杖を付いて和樹を眺めていた高元が、至極冷静な声を発した。

「お前さっきから何してるんだ?」

「ん? あーちょっと」

「ちょっと?」

「探し物」

「……なんだ」

「ん?」

「楽譜、だろ?」

和樹が視線を上向けると、高元がにやりと笑う。

「和樹は女より音に恋してるもんな」

「ん……」

 和樹は探し物を中断されたことに内心でいらだちながら、

不承不承頷いた。

「まだ途中なんだ。

浮かんではいるから早く書き写しちゃいたいんだけど……」

「かぁ~~! だめだ、だめだよカズ!!

それじゃあ青春台無しだって!!」

 言いながら机の端をばしんと叩く金谷。

「馬鹿。和樹はいいんだよ」

 高元は冷たく言い放った。

「なんだよ、それ」

 尋ねる金谷を無視し、

「2組だよな? 麻奈ちゃんって子」

 からかいを含んだ目つきで頬杖を付き、和樹を見る。

「毎日仲良く登校してるもんな」

「ホントかよ!? 水臭いぞこの~!!」

 話を聞くなり顔を真っ赤にしてぐいぐいと首を絞めてくる

金谷をやっとのことで振り払い、

「ただの幼馴染だよ」

 と、苦笑いつつ、中断していた作業を再開しようとした時、

教室の前の入り口から声がかけられた。

「和樹」

 視線を向けるとそこには、ショートカットをした一人の少女の姿。

「麻奈」

 名を呼び、あからさまに冷やかしてくる友人2人の視線を余所に立ち上がる。

「何か用?」

 廊下に出て麻奈の前に立つと、思わず溜め息を吐いた。

暖房の入っている教室と比べ、朝の廊下は寒い。

2月ももう後半戦とはいえ、早いうちの日差しはまだ弱いのだ。

「何の用かって……それがわざわざ廊下の端っこにある9組まで

来てあげた幼馴染に対する言葉?」

「そんなの用件によるよ」

 身震いを悟られぬよう、和樹はそっけなく言い放つ。

「……」

 麻奈は黙り込む。そして無造作に白い厚紙の束を和樹に押し付けた。

 瞬間、微かな香りが和樹の鼻腔をくすぐった。

――え……?)

 オレンジの匂い。

蜜柑など、特に好物というわけではないけれど。

だがそれでもその甘酸っぱい香りは、

仄かだが確実に和樹の脳を甘く刺激した。

「和樹のでしょ?」

 麻奈の麻奈の問いに頷き、半ば上の空で頷く。

渡されたそれは、先刻から和樹が探していた楽譜だった。

「音楽室に置き忘れてたみたいよ。田沼先生が多分和樹のだろうからって」

 腕を腕を組み、面倒臭げに答える麻奈。

「そっか。ありがと」

素直に礼を言うと、麻奈は満足げに微笑む。

「じゃあね」

 踵を返しかける一瞬に、

再度、微かな香りが和樹の周囲を甘く満した。

「ねぇ……」

 和樹は言い知れぬ衝動に駆られて、麻奈を呼び止めた。

「何?」

 先刻と同じように面倒臭そうに振り返る麻奈に向かい、

和樹は問う。

「麻奈って、香水つけてんの?」

「……はぁ?」

 麻奈は思いっきり眉を顰め、和樹に近づく。

「そんな校則違反なことこんな時期に私がすると思うの、和ちゃんは?」

「いや、別にそういうわけじゃあないんだけどさ……」

 和樹は麻奈の接近に対し、急激に跳ね上がった動悸に自ら狼狽しながらも、

「なんか、その、この楽譜、匂いがするんだ。

柑橘系っぽい……」

 再度問いかけた。すると麻奈は天を見上げ、

あー、と声を上げてから、意味ありげに和樹を見やった。

「?」

「その匂いって、これのことでしょ?」

 言いながら右ポケットを探る。

取り出したのは、手のひらに収まった剥きかけの蜜柑で。

和樹は思わず目を点にした。

「みかん?」

「そ、みかん。今朝家から持ってきて、

剥こうとしたら田沼先生から声かけられたのよ」

 その時手についた汁がついちゃったのかもね、と麻奈は微笑む。

「この学校は食べ物の持ち込みも禁止だろ」

 和樹はそう反論しようとしたが、彼女は笑みを浮かべたまま、

おもむろに手にした蜜柑を剥き始めその実を半分に割った。

そして、つかつかと和樹の前に歩み寄り、

無言のまま半分になった実を彼の口へと押し込む。

「共犯者」

 一瞬いたずらっぽく目配せをし、

じゃあまた放課後に、といつも通りどこか物憂げな表情で言って、

走り去っていった。

和樹はその様子を呆然と見送る。

「……いつもは、くれって言ってもくれないくせに……」

 内心の動揺を無視し、口内でもごもごと悪態を吐いてから、

何食わぬ顔で席へと戻る。

戻った途端言い知れぬ疲れを感じて、

楽譜を置いた机に突っ伏した。

「……」

 両腕に両腕に作られた小さな薄暗闇の中で、微かに香るのは蜜柑の香り。

楽譜についたものなのか、

たった今自らが食べたそれなのか。

――どっちでもいいけど……)

 思い出すのは、いつも見慣れていたはずの麻奈の姿。

蜜柑の香りに誘われるように、次々と思い浮かんでは消えていく。

「なぁ、カズ~」

 金谷が肩を叩いた。

「どうしたんだよ」

 心配げな級友の声に、不承不承起き上がりつつ、

ふと五線譜の描かれた白い厚紙に目をやった。

左端へ、少し折れ曲がるようにつけられた、小さな黄色い爪痕。

消そうとして、その手を止める。

和樹は、爪痕をしばしながめると、

誰にも見られないようすばやく楽譜を愛用のファイルに収め、

大事そうに鞄の中へと仕舞い込んだ。

「なんかいいことあったのか?」

 高元が相変わらず頬杖を付いたまま問いかけてくる。

「ううん、別に」

 首を左右に振りながら、内心でもう一度、別に、と繰り返した。

 別にたいしたことじゃない。

 さっきから自分を包むこの香りも、

きっとすぐに消えてしまうものなのだから。

――でも……)

 またぞろ浮かんできた麻奈の笑顔に、頭を抱える。

今まで曲を作ること以外に、

頭を悩ませることなんかなかったはずなのに。

忘れられないあの香り、そして麻奈。

いくら頭から振り払おうとしても、

その脳裏にはすでに、早朝の廊下に漂ったあの甘酸っぱい蜜柑の香りと、

あの時見せた麻奈の一挙手一投足とが、

拭い去りようのない鮮やかな記憶として、胸の奥へと残っている。

――どうしたらいいんだろう……)

 和樹はこれ以上ないほど、めいっぱい眉を顰めた。

こんなわけの分からない状態で、

放課後になったら一体どんな顔をして会えばいいというのか。

不信げに見やる友人たちを尻目に、

慣れない想いに対し必死で考えを巡らせる和樹。

そんな彼らの教室にも、

春の訪れを告げる暖かな日差しが、

窓辺から柔らかに差し込み始めていた。

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