≪ 第1章 落胆 1 ≫
「は?」
居間に異口同音の間の抜けた声が響く。
明治36年、秋。
16歳の小松琴乃(こまつことの)は、この度めでたく婚約した。
だがその席で、婚約者となる入来院千尋(いりきいんちひろ)は、
千尋の父親である晃弘(あきひろ)も困惑するほどの提案を持ちかけてきたのである。
「それは、つまりどういうことかな?」
微かに怒りの含んだ声音で、琴乃の父、小松義貞(よしさだ)が訊く。
千尋は今一度姿勢を正し、言葉を紡いだ。
「申し訳ないことだとは思っておりますが、わたくしはまだ学生の身。
勉学の徒でございますので今すぐの婚姻はできかねます。
少なくとも卒業までのあと2年ほど、
待っていただくことをお許しいただきたいのです」
「そ、それなら、婚姻だけでもすることは可能ではないのか?」
晃弘が息子に問うと、千尋がかぶりを振った。
「それはできません。
そもそも半人前である自分が結婚など大それたことなわけですから」
「だがお前。この見合いはお前自身も望んだことではないか」
晃弘の言葉に千尋が頷く。
「はい。是非とも琴乃さんを妻に迎えたいという思いは変わっておりません」
「なら、何故……」
「四六時中女性のことを考えてしまう状況は勉学の妨げにしかなりませんから」
「むぅ……」
揺らぎのない瞳できっぱりと告げる千尋を前に、一同言葉を失う。
琴乃は邪魔と言われたことにこっそり傷ついたが、溜め息を吐き千尋を見つめた。
オープニング背景画像:良香さんによるphotoAC(写真AC)からの写真