「いちょうってなぁに?」 約束
「この木の名前だよ。銀杏はね、この街に一本しかない聖樹なんだ」
「せいじゅ?」
「神さまがくれた、大切な贈物ってイミさ……」
彼はそう告げると、静かに瞳を伏せた。
「忘れないで。いつか必ずまた逢おう、この銀杏の木の下で」
だから、老人は待っていた。
気の遠くなるほどの長い時間を、ずっと。
ずっと……。
東の空から昇りはじめた太陽が行き交う人々の頭上を照らし、街が活気に満ちる頃。
老人は独り、大きな銀杏の木の木陰に佇んでいた。
教会前の広場では、今日も子供たちの楽しげな笑い声が賑やかに響き渡っている。
噴水の周りをくるくると踊るように駆け回る少年たち。
緩やかに波立つ水面へ幼い手を浸し、くすくすと笑い合う少女たち。
いつもと変わらない朝の、いつもと変わらない風景……。
そんな景色を見ながら老人は、長い長い溜め息をついた。
申し訳程度に生えている白髪を撫で付け、ボロボロの衣に付いたフードをかぶる。
地面につく程豊かに蓄えられた髭にそっと手をやり、
先の方に結び付けられた年代物のリボンをしみじみと眺めやった。
もとは鮮やかな深紅色であったそれは、今や見る影もなく色あせほつれ風化しつつある。
けれど、それを捨てるわけにはいかなかった。
待っているから。
幼い日に交わした約束を果たし、
あの日言えなかった大切な一言を言うために。
だが時間は、そんな自分を嘲笑うかのように刻々と過ぎていく。
気がつくと己の年齢も百をとうに超えていた。
もう自分の名を知る者は誰一人として残っていない。
嘗て栄えた大国が一瞬にして滅び去ったあの悲劇の爪跡でさえ、
気にとめる者はもういない。
真実を物語るものは、
残された僅かな記憶とともに全て風化してしまうものなのだろうか。
このリボンと同じように……。
柔らかな風が吹き、銀杏の青葉が優しく揺れる。
老人は木洩れ日に煌く葉の群れを見上げながら、その巨木に語りかけた。
「なぁ、銀杏よ。あの人は本当に来るんじゃろうか」
一度でいい。彼(か)の人に逢いたい。
どうしても、言いたい言葉があるから。
許されることなら待っていたい、永遠に。
だがもう自分には時間がない。
「所詮は、叶わぬ願いだったのじゃろうか……」
静かに呟いた彼の長い髭が不意に重みを増した。
ゆるゆると見下ろす視線の先には、長い髭の先を握り締める小さな手のひらがあった。