とある町のとあるホテルの一室で。
とある小説家が、明日の締め切りを前に修羅場を迎えていた。
彼の名は藤田守。
守は今、ひどく悩んでいた。
今までずっとファンタジーしか書いてこなかった自分が、SFモノを書かねばならなくなったからである。
ちなみに「SF」とは、サイエンス・フィクションの略だ。
間違っても「スペース・ファンタジー」などではない。
なのになんで俺が、と彼は頭を抱えた。
今まで自分には全く関係のない世界、とこれまで鼻にも掛けてはいなかったのに。
どこをどうしてこうなったのやら。
どだい守はこの話を持ち掛けられた当初、はっきりきっぱり断っているのだ!!
―――いや、断ろうとしたのだ……。
自分はファンタジー以外のものを書くことはできない、と。
それなのに気がつけばこのザマだ。
当たり前と言えば当たり前の話だが、締め切りを前にまったくと言って良いほどアイデアが浮かばない。
「ああ、不幸だ」
守はうめく。
嘆いてみても始まらないのは分っている。
分っていてもそう言わずにはいられなかった。
なにしろその時の守はトコトン仕事にあぶれており、
「何が何でも仕事を採らねば明日はないっ!」
と、いうような、もう本当に心底のっぴきならない状況にいたのである。
あいにく彼は、飢え死に覚悟で自身の主義主張を通すほど、一途でも馬鹿でもない。
というわけで。
これを逃せばこの先一切仕事はなくなるだろう、
と、皮肉げに微笑む担当に向かって守は、迷うことなく両手をついた。
「是非とも僕にやらせて下さい」
人間、日頃どんなにプライドだのポリシーだのと言っていても、空腹には敵わないものである。
そうだ、それもこれもすべて貧乏が悪いっ!!
デスクに置かれたパソコンの横にある雑誌をパラパラと見やり、
『ハッピー星座みくじ』と題されたページを開いては、また溜め息をつく。
……運勢は大吉だった。
しかもご丁寧なことに、月決めランキングではすべてが1位。
「『これ以上はないほどの幸運があなたのもとに舞い込んでくるかも!?』か……。
『かも!?』ってところがいかにも俺っぽくて不幸な感じだよな、ははは……」
守は自分の不運を呪い、半ばヤケクソになって叫んだ。
「あ~あ、なんかもぉ、アイ○ック・ア○モフでも誰でもいいから
俺の代わりに何か書いてくれねぇかなぁ~!」
と、その時!
どんがらぴっしゃぁぁぁぁん!!!
突然全身に稲妻のような衝撃が走った。
「のひゃひっ!!?」
意味不明の叫び声をあげ、倒れる。
そのまま何1つ思う暇もなく、彼は自らの意識を手放した。
* * *
……ふと気がつくとワタシは見知らぬ空間の中にいた。
目前には訳の判らぬ白くて黒く輝く箱のようなモノが置いてあり、
その下にはナニヤラかたかたと動くモノがある。
――ナンダコレハ? ……ドコダココハ……?
ワタシは辺りを見回した。
すると左端に鏡面があるのを発見っ!!
近づいて覗き込んだワタシは、驚きのあまり声を失った。
鏡の中のワタシはなんとワタシではなかったのだ!
映っているのはこのワタシではなく、ワタシ以外の何者かであった。
「すごいっ! すごいぞっ!!」
このようなことが本当に起こり得るとは。
……ユメではなかろうか……?
至極古典的な方法ではあるが、ワタシは頬を抓ってみた。
――痛い。
つまり、ユメではないということであろうか?
いや、そんなことよりも――!
ワタシは、ワタシ自身の中に抑えようのない衝動がむくむくと湧いてくるのを感じていた。
何としてもこの感覚の衰えぬうちに形にせねばなるまい!!
ワタシは言葉では言い尽くすことの出来ぬ想いに突き動かされ、いま一度辺りを見回した。
何でも良い。何か書き留めるモノが欲しかったのである。
「むっ……!」
そしてワタシは、目覚めた時に見たあの不可思議な箱に目をとめた。
なるほど、確かに変わった形をしてはいるが、
よく見れば下に出っ張っているのはタイプライターのそれと酷似している。
「これだっ! これしかないっ!!」
ワタシは急ぎ椅子に座ると、一心不乱にキーを叩き続けた―――。
* * *
意識を取り戻した守は、目の前のディスプレイを見て愕然とした。
それは文章というにはあまりにも不可解な文字の羅列で、
スクロールしてみると原稿用紙にしておよそ100枚以上にもなるそれが、えんえんと続いている。
「これは……一体なんなんだっ……?!」
『――い はヴぁ ぺn。ゆお 失せ あ のてぼおk……』
守は訳の分らぬまま、とりあえずその文字を撫でるように目でなぞる。
やがて、あることに思い当たった。
「そうか! これは英語なんだ!!」
ローマ字入力でかな変換されているから暗号のようになってはいるが、これは明らかに英文である。
「よぉし! そうと分れば――」
守は締め切りのことなどすっかり忘れ、ひたすらかな文字から英文への変換に没頭した。
彼は確信していた。
あの痺れるような感覚の後、彼が気を失っている間に何が起こったのかを。
―――これ以上ないほどの幸運がアナタのもとに舞い込んでくる……。
頭に過ぎったのは先刻の占いだった。
「これ以上ないほどの幸運」
それはきっとこのことに違いない。
そうだ。そうだ。
この英文はおそらく、天から降りてきたアイ○ック・ア○モフの霊が自分に乗り移り、
書いたモノに違いない!!
彼は苦しんでいる自分を哀れんで現世に降り、代わりに話を作ってくれたのだ。
――ああっ、なんとあり難いことだろうっ!!
彼の作品を自分の作品として世に出すことで、何の苦もなく原稿料を戴くことができる。
しかもきちんと締め切りを守って。
――いやいや、それだけじゃない。
何しろこれは天下のSF作家、アイ○ック・ア○モフが書いた短編小説(予想)なのだっ!
「ふふっふふふっふふふふふ」
――もしかすると、これを機に売れっ子作家になっちゃったりして。
「神様仏様ア○モフ様、どうもありがたう♪」
大勢の人に囲まれ、サインを求められる自分の姿を思い浮かべ、守は独りほくそえんだ。
窓の外は徐々に白みはじめる。
それとともに締め切りも近づいてきていた。
「急げ急げ……」
守は逸る心を抑えつつ、それでも慎重に変換作業をこなしていった。
だがしかし、もうあと少しですべての変換が終わるという時になって、彼はある重大なことを思い出した。
「しまったぁ!! 俺は英語がダメなんだよっ!!」
夜は無情にも明けようとしている。
今から辞書を片手に訳したところで、自分の英語力では到底締め切りには間に合いっこない。
――ちくしょうっ! ここまで来て……。
守は握り締めた拳をデスクに叩きつけた。
「いちちち……」
痛みを堪えながら彼はふとデスクの引き出しに目を止める。
その瞬間、守の絶望的な思いと痛みは即座に吹っ飛んでいた。
「……あ、そうだ! あれがあったんだ!!」
彼は引き出しから一枚のCD-ROMを取り出した。
「これさえあれば、ふっふっふっ……」
英語の苦手な彼が、もしもの時とばかりにそのネーミングに惹かれて買った翻訳ソフト、
その名も『英訳パーペキみるみる君ver.3』である。
「よぉ~し、これでこれで……」
我知らず高鳴る鼓動。
守の頭の中には勝利の賛歌さえ鳴り響いている。
そして――。
「くくくくくっ……」
ひきつったような笑い声を上げながら、彼はパソコンにそのソフトを突っ込んだのだった―――。
* * *
夜が明けた。
スズメたちのさえずりが、すがすがしい朝の訪れを告げている。
ホテルの1つしかない窓から差し込む柔らかな日差しは、
小さなテーブルを挟んで座る一組の男女を明るく照らしていた。
女は無表情に、向かいの椅子に腰掛けた男に向かって口を開いた。
「で……?」
「……いや、だから、……その……ね……?」
男は何やら忙しげに視線を動かし、女に紙の束を渡す。
女は受け取ったそれを一瞥し、一層冷めた口調で同じ言葉を繰り返す。
「……で……?」
「だっだから、その……」
「その?」
「その……」
「藤田先生……」
口篭もり俯いてしまった男を見て、女は小さく溜め息をついて言った。
「私が先生にお願いしたのは小説の原稿……でしたわよね?
……それがなんで、こんな訳の分らないモノになってるんですっ!!」
女は語気を強め、原稿とは名ばかりの紙束を荒々しくテーブルに叩きつけた。
叩きつけられた勢いではらりと落ちた紙には、
―――私はついにsensational感情を煽るような感動的な驚異的な
allもしもわたしはそれをsee目に見える考える
canかもしれないできるに違いないのであって……―――
などという意味の分るような分らないような文章がプリントされている。
「……事情は話したと思うんだけどね、その……」
守はなんとも情けない表情で、上目遣いに女を見やった。
「ええ、ええ、事情はよぉくお聞きしましたとも。
先生にあのSF小説の大家アイ○ック・ア○モフ氏の霊が乗り移って、
先生の代わりに小説を書いた、というのでしょう?」
「そう」
「だから――」
守の担当である彼女は、トコトン胡乱な目で守を見つめ返す。
彼の言っている事を1つとして信じていないのは、その態度からも十二分に見て取れた。
「それがどこをどうしてこうなるんですかっ?!」
「だから、なんだか分らないうちに気を失って、
気がついたらなんだか暗号みたいなのが画面にバァッとあってさ。
ほんっとに直すの大変だったんだぜ?」
「ほほ~ぉ、それで?」
「それでって……ちょっとね、君」
「……」
彼女の無言の圧力に、少しの抵抗も虚しく何も言えなくなる。
仕方なく、守は弁明を続けた。
「――いや、だから、直したのはいいけど英文だったから、
翻訳しようと思って……けど俺、英語苦手なんだわ」
「……それで?」
「つまり、翻訳ソフトを使ったのさ。だけどなんかどれも直訳になっちゃうみたいでさ、ハハッ……」
「――それで……?!」
「こんなんできましたけどv――なんちゃってvv」
「『なんちゃってvv』じゃあないでしょうっ!!」
女担当が両の手をテーブルに力任せに叩きつけるのと同時に、置かれた紙束が部屋に舞った。
「ははは……」
彼女の金切り声をバックに、その光景をぼんやり見つめながら守は思った。
―――ああ、どうせ頼むんなら、星○一にしとけばよかった(泣)……。