present 掌編

 夜更けの公園。

 愛美はベンチに腰掛け、目の前の丘の上に聳え立つ時計台を眺めていた。

丘の上の時計台はライトアップされており、

誰もいない場所で意味もなくぽつねんと、白く細長い姿をさらしている。

だが、肝心の針は先ほどからぴくりともしていなかった。

「なんだか、わたしみたいね……」

 愛美は呟き、苦笑する。

両腕を擦りつつちらりと見た腕時計の針は、

あと10分ほどで午前0時をまわろうかというところだった。

「もう時間か……」

 残業中、少しだけもらった休憩時間。

飲み物を手渡そうとした上司に対し、

外の空気を吸ってくる、と言ってオフィスを出てきた。

それから、かれこれ15分以上はここにいる。

――もう、戻らねばならない。

「出来れば、12時まではここにいたかったかな。そしたらきっと――

 愛美は名残惜しげに時計台を見上げ、

うんせ、と背伸びをして立ち上がる。

するとそこへ、横合いから声がかかった。

「ここ、いいかい?」

 愛美は驚き、慌てて声のした方へ振り向く。

が、それよりも一瞬早く、

暗闇から伸ばされた手がぐいっと彼女の肩を掴み、

身体をベンチへと押し戻した。

「座って」

 影は言った。

「え?」

「隣り、いいかい?」

「……はぁ……」

 愛美は曖昧に頷く。

そのまま緩々と正面に向き直り、

盛大な溜め息とともに頬杖をついた。

と、影が遠慮がちに、自分の隣りへと腰掛けるのを感じた。

「寒いな」

 影は腕を擦りつつ愛美の方を見た。

「冬ですから」

 愛美が頬杖のままにべもなく答えると、

そりゃそうだ、と影がくすりと笑った。

「驚かないんだ」

「驚いてますよ」

 愛美は憮然と言う。

叫ぶ気にならなかったのにはそれなりに理由があったからであって、

決して驚いてないわけではない。

――まったく、もう。

 愛美はむっつりと黙り込み、白い時計台を薮睨む。

が、丘の上からは当たり前の如く何の反応も返ってはこなかった。

「聞いてもいいかな?」

「……」

 影が言うのに対し、愛美は沈黙を守る。

相手の不機嫌を悟った影は、

「いや、ダメならいいんだ。別に」

 と、いささか精彩を欠いたトーンで付け加えた。

愛美はそんな影の慌てふためいた様子を感じつつも、

視線は相変わらず正面を向けたまま、

どうぞ、と小さく肩を竦めた。

影は咳払いとともに口を開く。

「何でこんなところに?」

「いちゃ悪いんですか?」

 我ながら愛想のない返答だ、とは思いつつ愛美は言った。

「いや、そうじゃないが……」

 お茶を濁すように言いよどむ影。

愛美は内心の苛立ちを抑え、無機質な声で答えた。

「待ってるんです」

 影はその言葉に目を見開き、細める。

そして、頬杖を付いたまま時計台を眺めやる愛美の横顔を、

改めて見つめた。

「誰を?」

 尋ねる相手に、愛美は言う。

「時を」

 それには、へえ、と感嘆の声が上がった。

「なぜ?」

「さあ……」

「……」

 またしばし、沈黙が続いた。

愛美は相変わらずの姿勢で時計台を眺め続け、

影はそんな彼女からおもむろに視線を外す。

そしてほっと小さく息をつくと、実はね、と話を切り出した。

「俺も待ってるんだ」

 その声は幾分か緊張を孕んでいるようだったが、

愛美は気付かぬふりをした。

「何を?」

 無関心を装い尋ねる愛美。

とはいえ、意識しているせいか語尾が強まってしまい、

お世辞にも成功しているとは言いがたかった。

「機会を」

 案の定、含み笑いの答えが返ってくる。

「どんな?」

「さあ……」

「……」

 愛美はその言葉にやっと頬杖を解き、影を見やった。

薄明かりの中でもしっかりと確認できる距離から、

改めて確認し、またしても盛大に溜め息をつく。

影は彼女が当初から予想していた通りの人物だった。

阿立暁。彼女の上司である。

愛美には声を聞いたその瞬間から、

それが誰であるのかなど分かりきったことだった。

しかしだからこそ、だろうか。

確認すると、より一層新たな怒りが

またふつふつと湧き出てくるのである。

「……聞いてもいいですか?」

 冷え冷えとした声を上げる彼女に対し、

暁はおどけた調子で小さく両手を挙げた。

「いくらでも」

「なんでここに?」

「待つのに飽きたから、かな?」

 頬を掻いて視線を明後日に向ける彼に、

愛美は語気を強める。

「そんなに信用ないですか、私」

「そんなつもりはなかったんだが」

「別に逃げるつもりありませんよ、仕事も残ってるんだし」

 彼女の言葉に暁が反応した。

彼は真剣な表情で愛美を見つめ、声を低めた。

「仕事だけ、かい?」

「いけません?」

「悪くはないが、いいとも言い切れない」

 2人は同時に黙り込む。

イラついているのはお互い様だった。

かみ合っていないものがあることも、

それがなんなのかも、よく知っていた。

変わりたい、変わりたくない、変わりたい……。

さ迷う気持ちはまるで時を刻む振り子のように、

2人の胸の内で行ったり来たりを繰り返す。


――動かない、丘の上の時計台。

まるで今の自分たちのように。

もしここで時が来れば?

 いいえ、多分変わらない。時が来てもきっと。

丘の上の時計台は、きっと。

たぶん、これからの

自分たちをも暗示しているかのよう――


 自問自答が続く中、突如小さな電子音が響いた。

「12時だ」

 暁が腕時計を見て呟いた。

愛美はその声を聞きながら目を瞑り、深呼吸をする。

変わりたいのなら、変えなくてはならない。

もう、時が来てしまったから。

このままでいたくないのなら、言わなくてはならない。

もう、この人も来てしまったのだから。

きっと、もう、逃げることはできないのだ。

もう、きっと、ごまかすこともできはしないのだ。

だから――


「待ってたものが来てしまったみたいなんだよ」

 暁が乾いた声を漏らしつつ、愛美を見つめた。

「待ってたものが来てしまったみたいなんですよ」

 愛美も答え、その視線を受け止めた。

互いの瞳の色が明るさを増したその次の瞬間、

『受け取ってください』

 2人は同時に言い、両手を突き出した。


「……オフィスに帰ってからでも十分だと思ってたのに」

 贈られた紙をしげしげと眺めながら、愛美は言った。

なんの変哲もないその用紙には、

太文字で『婚姻届』と書かれてあった。

「このままじゃ、また決意が鈍りそうだったから」

 答えながら暁は、彼女からもらったチョコレートを頬張る。

愛美は堪らず小さく噴出した。

暁は心外だと言わんばかりにめいっぱい眉を顰める。

「おかしいか?」

「ちょっと性急すぎ」

 くすくすと笑う彼女に苦笑して、

彼は人差し指で鼻の頭をぽりりと掻いた。

「……まあ、確かに。

でも、付き合いも長いし、他に言いようもないし。

俺なりに色々考えてみた結果なんだが……」

 その言葉に愛美は肩を竦める。

「確かに分かりやすい気持ちだとは思うけど。

別の方法もあるでしょうに」

 声を弾ませ破顔しつつ、彼女は愛しの彼に寄り添う。

すると、暁はおもむろに胸ポケットから、一つの鍵を取り出した。

それはなんの変哲もない、愛美がいつも使用しているデスクの物で。

彼女は暁の意図を測りかね、心許なげに彼を見やる。

そんな彼女に、暁は澄まし顔で、

「気付かなかった?」

――え……!?」

 驚きまじまじと見た視線の先にあったのは、所々黒ずんでいる鍵と、

番号の付いた愛想のない色あせた青いストラップ、そして――。

その2つに挟まれ隠れるようにして輝いている、銀の指輪。

「ハッピーバレンタイン」

 驚きのあまり言葉もなく立ち尽くす彼女に、彼は微笑んだ。

「そんなこったろうと思ったんだ」

 もう、3日も前から付けて置いたのに、

なんのリアクションもないんだもんな、

とわざとらしくしかめ面を作る暁に、彼女も微笑む。

「ハッピーバレンタイン」

 寒空の中、重なり合う2つの影。

そんな彼らの頭上からは、包み込むように淡い色の光が降り注いでくる。

月でもなく、外灯でもなく。

丘の上からただ静かに、しんしんと注がれるその柔らかな光は、まるで。

時を刻まぬ時計台が最初で最後の贈り物として、

新たな時を刻み始めた恋人たちの前途を、祝福しているかのようだった。

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