≪ 第一章 五月の風に誘われて 3 ≫
だが、言ったとうの本人はこちらの反応などどこ吹く風らしい。
眉間に皺を寄せているのを楽しげに眺め、声を上げて笑う。
それから、ふと息を吐(つ)いた。
じゃがな、と真剣な面持ちで見据えてくる。
「気をつけたほうがええ。五月の風は気まぐれじゃからな。
気に入られたが最後、取り込まれてしまいがちじゃ」
老人はふさふさとした毛髪の下、わずかに光る瞳で遠くを見やった。
「特にお前さんがたくらいの歳の者はのう……。とかく惹かれやすいんじゃよ」
その横顔には、おごそかで、どこか言い知れぬ威圧感が漂っており、真人は息を呑む。
「まあ、くれぐれもお気をつけなされ」
老人は悪戯っぽく眉を上げ、ねらりと光る金歯を見せた。
次の瞬間、ホームに列車の到着を告げるアナウンスが流れ、真人は時計を見る。
時刻を確認して、じゃあ、と最後に一声かけようと振り向いた。
しかし、ほんの数瞬前までベンチに腰掛けていたはずの老人の姿は、もうなかった。
「なんだったんだろう」
真人は小さく肩を竦め、改札口へ行く。
さっそく愛想のいい初老の駅員に山への道順を尋ねる。
休日には家族連れで賑わうハイキングコースだから、
大人の足なら今からでも十分行って帰ってくることができるらしい。
東京とは名ばかりの片田舎で育った自分なら、その程度の山は朝飯前だ。
真人は駅員に礼を言い、ためらうことなく山へと向かった。