「本日からお世話になる高野栞(たかのしおり)です。これからよろしくお願いいたします」
栞は目の前でにこやかな笑みを浮かべている中年女性に向かって、深々と頭をさげた。
木洩れ日溢れる並木道の向こうにあったのは、真っ白な洋館。
そのあまりの大きさに半ば夢見心地でおずおずと呼び鈴を鳴らすと、
出てきたのは背の低い小太りの女性だった。
女性は名を松本(まつもと)と言い、寮の一切を任されている寮母であるという。
松本はこの期に及んでしり込みをしている栞に対し人の良い笑みを浮かべると、
扉を大きく開け放ち屋敷の中へと招き入れてくれた。
「まあまあ、ご丁寧に。そんなことより外は暑かったでしょう?
世間じゃ避暑地なんて言われていても、夏は夏ですからねぇ」
松本は胸の前で右手を左右に振る。
「この時期はやっぱりねぇ。日陰に入ると涼しいんだけれど。
そういえば、お顔が赤いみたいね。お水でも持ってきましょうか?」
「どうぞお構いなく」
答えながら栞は、陽に焼けて浅黒くなった寮母の朗らかなおかめ顔を見返した。
「それより、先に送っておいた荷物を夜までに整理したいので。
お部屋の鍵、頂けますか?」
「あらいやだ、忘れてたわ」
松本は両手で自分の衣服をぱたぱたと叩き、大げさに肩を竦めて見せる。
「あらあら、ごめんなさいねぇ。
鍵を忘れてきてしまったみたい。今持ってきますから、ちょっと待ってて下さいよ」
松本は高く澄んだ笑い声を響かせつつ、慌しげに去っていった。
松本がいなくなると、ホールは水を打ったように静まり返った。
栞は改めてだだっ広い玄関ホールを見渡す。
柱や床は全て大理石でできていた。
頭上には豪奢な細工のシャンデリアがぶら下がり、足元に敷かれた赤色の絨毯は2つに交差した階段の表面を滑るようにのび、二階へと続いている。
栞はその景色を、ただただ感嘆の思いで眺めた。
それからふと我に返り、今度は深い溜め息を落とす。
もしかすると自分は、とんでもなく場違いなところへに来てしまったんじゃないだろうか。
心許ない気持ちを紛らわそうと、栞は紫の布包みを両腕に深く抱き込む。
俄かに1つ上の階から何やら微かな物音がして、栞は顔をあげた。
目に入ったのは、若い女性。
ショートカットにスポーティな服装をしたその女性は一人佇み、
階下の栞をどこか冷めた目で見おろしていた。
「あのう、今日からこちらでお世話になる高野といいますが。これからよろしくお願いします」
おずおずと話しかけると、女は細い瞳を少しだけ見開く。
「ああ、あなたがあの」
「え?」
「いえ、あなたのことは寮母の松本さんから伺っています。
私は文学部3年の伊藤真紀(いとうまき)。一応ここの寮長なの、よろしくね」
伊藤は外見と同様、はっきりとしたよく通る声で栞に答えた。
「こちらこそ」
「せっかくだから歓迎会を開こうと思ってたんだけど、
あいにく休み中は旅行やら里帰りやらでみんないないのよ。
私もこれから出かけるし。寮の規則なんかはある程度聞いてると思うけど、
部屋に用紙があるからよく読んでおいてね。
わからないことがあったら寮母の松本さんに訊けば大抵のことは平気だから」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
栞が頭をさげると、伊藤は目元を和らげた。
「そんなかしこまらなくてもいいわよ。それより、松本さんは?」
尋ねられた栞はその問いには答えず、松本が去っていった方へ視線を向ける。
伊藤も栞が目を向けた方へと身を乗り出したのが、小さく響く木材の音でわかった。
そのまま2人で廊下を見つめ続けることしばし。
松本が屋敷の最奥から重い扉を軋ませつつ、のっと姿を現した。
彼女は苦労して開けた扉を同じようにゆっくりと閉ざす。
くるりと踵を返し、
先程とは打って変わった落ち着きのない動作で廊下を走りだした。
松本は全速力でこちらの前へと立ち、
今度は糸の切れた操り人形の如く腕ごとかくんと頭をさげる。
「ごめんなさいねえ、お待たせしてしまって」
息を切らせて松本が詫びてくる。
伊藤は身を乗り出したまま茶化すように顔を綻ばせた。
「こんにちは、松本さん。今日も相変わらず忙しそうね」
「あらあら、伊藤さん。もう行くの?」
「ええ、留守中のことよろしくお願いします。これ部屋の鍵」
階段をおりながら鍵を放る伊藤。
それをあたふたと受けとってから、松本は少し呆れたような微笑で応じた。
「はいはい。気を付けて、いってらっしゃい」
「そうするわ。……高野さん」
「はい」
「いえ、何でもないの。気を付けてね」
「はあ」
伊藤は玄関の扉を開き、一瞬栞に物言いたげな表情をした。
だが、栞と目が合うとすぐ視線を逸らし外へと出ていってしまう。
首を傾げつつ見送る栞に、松本が明るく笑いかけてきた。