≪ 第一章 乳白の空間 3 ≫
感情の起伏が強くなってきている。先ほど自分が見たものは、やはり気のせいではなかった。
どうも、煙の効果が薄れてきているようだ。
背中に嫌な汗が伝う。同時に、同僚の職務怠慢を腹立たしく思った。この仕事を終えたら、文句の一つでも言ってやろう。
神は葉子に気づかれぬよう小さく息を吐き出し、再び営業用の笑顔を顔に貼りつけた。
「安心してください。どなたにも穢れはありますから。
ただ、天上人になるためにはその穢れをすべて浄化させなくてはなりません。
ですので、多くの方が天間地で穢れを浄化するまでの間暮らしています。かくいう私もその一人です」
こちらの言葉に安心したのか、葉子が少しだけ顔を綻ばせる。初めて見る彼女の笑顔に神は、目を見開いた。
効力が薄れるのが早すぎる。早くこの女性を天上地へ導かなくては後々面倒なことになってしまうだろう。
神は急いで彼女へ手を差し出した。
「さあ」
今度はちゃんと、素直に手を重ねてきた。
力を抜いて」
神は、立ちあがらせた葉子の額にそっと手のひらをかざし、低い声で言葉を紡ぎ始めた。
「我は導くものなり
天上界の命に従い
我が名をもって
貴殿を導こう
異存はあるまいな」
こちらの声に反応するかのように、葉子の身体が光り出す。
淡い黄色に輝く光が段々と強くなり、やがて彼女の姿は見えなくなった。
人の形をしていたはずの光が徐々に丸みを帯び、最後には手のひらに転がるほどの小さな球体となる。
神は手を少しあげ、葉子だった球体にそっと息を吹きかけた。
空中へ投げ出される形となった球体は、そのまま駆けあがるように上空へと消えていく。
神は球体が消えると同時に、首を左右にかたむけ骨を鳴らした。あたりに小気味良い音が鳴り響く。
「任務完了。さっさと帰るかな」
左手でネクタイを緩めながら伸びをすると、欠伸が出た。
先ほどまで濃いミルクのようだった煙は、甘い香りを微かに残すだけで今は見る影もない。もはやこの場所に用はなかった。
早々にこの場から離れるべく、意識を事務所のある天間地へと向ける。
何気なく下ろした視線が地上地を捉えた。さびれた鉄筋コンクリートのビルがいくつか聳(そび)え建っている。
その中の一番低いビルの屋上に、長い黒髪をなびかせたセーラー服姿の少女が立っていた。
四方八方に乱れる髪を押さえることもせず、少女はただ前を向いている。
生気のない青白い顔にうつろな瞳、それでいて唇は血色がいいのか異様に赤かった。
刹那、少女の視線がこちらを見る。神は驚きのあまり息を飲み込んだ。同時に、誰かに胃を握られたような痛みが走った。
「なっ」
風で覆われていた髪の隙間から、少女の血のように赤い唇が弧を描く。一瞬だけ彼女の黒い瞳と目が合ったような気がした。
吸い込みすぎた息のせいで、むせ返る。神は呼吸を整えながら、動転した自分の気を落ち着かせた。
こちらの存在など見えるはずがないのだから、気のせいだ。そうは思うものの、確証をもつことができず。
もう一度少女へ視線を向けた。しかし、眼前にはすでに地上地の風景はなく、見慣れた白亜の細長い建物が広がっている。
先端が細く巻貝の形に似ているそれは、神が戻ろうと思い浮かべた場所だった。