新田菜穂子の壊された日常 1
しみるけいさんによる写真ACからの写真

≪ 一、え? なんで? 1 ≫



「結婚してください!」


 八月の上旬の夕方。

職場の美術館前で突然言われた言葉に、新田菜穂子(にったなほこ)は履いていたパンプスの踵からバランスを崩した。


「ええっと、とりあえずお断りする前提でお訊きしたいんですけど、なんでまた私に?」
「あなたのことは弟から聞いています。美術館の受付で働いていらっしゃることとか、
弟のことを気にかけていてくれたこととか。
そればかりか館長さんとある女性の仲を取り持つことまでしたとか。
そんな優しい方を俺はほかに知りません。
ですから、是非とも俺と結婚してください!」


 手を取ろうとしてくる細身で長身の男の両手をすり抜け、菜穂子は首を激しく振った。


「いやいやいや、おかしい! 絶対間違ってますから! 
そもそも私は誰かの仲を取り持ったりなんかしていません。
そりゃ、相談があればアドバイスするくらいのことはしたかもしれませんけど。
そもそも弟さんって誰のことなんです?」


 両腕を手で掴み身体をがっちりガードしながら尋ねると、男が虚を付かれたような顔をした。


「直己(なおみ)ですよ。吉村(よしむら)直己よくご存知でしょう?」


 胸に掌を当てつつ問いかけてくる男の言葉に、菜穂子は目を剥いた。


「直己君の?! え? 本当に?」


 疑うように男の顔を覗き込み、男の姿を検分する。

切れ長の黒い瞳に細い面。長い無造作な天然パーマの髪の毛が印象的だ。

前から見ると短く見えるのは、1つに結んでいるからだろう。

白い半袖Tシャツに灰色をしたノンスリーブの長シャツを羽織り、

下半身は黒のタイトなパンツに黒い靴を履いていた。


「もちろんですよ。直己がいつもお世話になっています」


 男が丁寧に頭を下げてきて、菜穂子は一瞬本題を忘れた。


「あ、いいえ。私は何も……」


 だが、次の瞬間覚醒し激しくかぶりを振った。

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オープニング背景画像: acworksさんによる写真ACからの写真